読書日記PNU屋

読書の記録

2005盗作問題「誰のための綾織」。


漫画家S.Y.が「スラムダンク」から構図を盗用していたとして
単行本回収・絶版、連載中断となったり、
小説家S.H.が自作中で名作少女漫画のストーリーをパクったりして
騒ぎとなったり、2005年は盗用・盗作がクローズアップされることが
多かったように思う。


そして、ミステリー界のこの問題にも触れておかねばなるまいと思う。
私自身も盗用した著者を(大好きとは言わないまでも)キッチュ
チャレンジャーな作家として気に入って読んでいたし、引用された
漫画は幼い頃とてもはまってファンだったものだ。
それゆえ衝撃は大きく、考えがいまだまとまらないところもあるが、
一読者のつぶやき(メモ)としてここに気持ちを記しておく。




A.K.「誰のための綾織」盗用事件。


もうすでに出版社からの裁定は下され販売中止、在庫回収がなされており、
Amazonの中古価格が高騰したりしていた
(私は新刊購入読了後、すぐに半額で売ってしまっているので手元には
ないが、案外田舎の図書館等だと書架にまだあったりする)。


5月17日に私は問題の本の感想を書いている…こちら

手放しでほめているわけでもなく、つまらなかったわけでもなく、
欠点もあるが大胆な騙しの手口に、なりふりかまわぬやり方とはいえ、
まだこんなテがあったかと楽しく読了したのだった。



そしてその次に出版された飛鳥部作品「鏡陥穽」は「誰のための綾織」
よりも面白いキワモノホラーであり、楽しく読了して余韻に浸っていたころ
のこと。私はDさまの日記で、「誰のための綾織」が盗用問題で話題に
なっていることを知ったのだった。


「誰のための綾織」作中作「蛭女」で、ヒロインの語るセリフの十数カ所が、
故・三原順先生の名作少女漫画「はみだしっ子」と一致していたのだ。


多くの方がこの問題をご存知であろうが、興味ある方は
「誰のための綾織」「三原順等のワードで検索してみていただきたい。
検証サイト・ブログがhitするはずだ。


…全く残念なことだ。


ミステリー作家らしくケレン味あふれる作品をものしてくれていた
飛鳥部勝則先生が、この事件によって「盗作作家」としてだけ
世に広まってしまったことが。


もちろん、文献名の提示や著作権者の許可無くして引用を行うことは
いけないことである。


今回、バカミスの王道を行っていた「誰のための綾織」で行われた
盗用部分は、ミステリー部分の本筋とはあまり関係ない雰囲気作りの
ところであった。もし盗用部分をごっそり削ったとしてもこの作品は
ムードこそがらりと変わって軽くなりこそすれ、ミステリーとして
成立はしたはずだ。



それゆえに、なぜムード作りとはいえ、なぜ既成作家の創作物…
しかもジャンル違いの漫画から、無断で引用などされてしまったのだろう。
想像になるが、もしもそれがムード作りのためであったとしたらあまりに
安易にすぎる行為ではないか。


結果は、作品の抹殺および作家としてその代償が大きい“盗作”の
レッテルである。今となってはもう遅いが、なぜ作中作とはいえ、
ご自分の言葉で世界を構築してくださらなかったのか、ただただ残念だ。


中学生の多感なころ、「はみだしっ子」にはまって愛読していたのに、
私は不覚にも、この一致に気付かなかった。
家出するときコミックスを持って来なかったこともあり、十数年
読んでいなかったせいもあるが、検証サイトにて「これはマックスの台詞」
という説明を観れば、ああなるほどその場面を思い出した。
自分が気付かなかったことがショック。
言い訳させてもらうと、両者のストーリーは似ても似つかないものなのだ。


天才・三原順先生が織り上げた大作漫画「はみだしっ子」は、
なんとも偉大なる、圧倒的な物語であった。
人の心の奥底まで深くしみいるストーリー、魅力的で忘れがたいキャラ、
繊細かつ美麗な絵のどれもが素晴らしく、まさに名作、
100年後も残ってほしい漫画を挙げろと言われたら必ず入るであろう
ヒューマン・ストーリーなのである。


いい言い方でないのを承知で言うが、引用された作品と、引用した作品の
格はつりあっていない。
はみだしっ子」の重厚さに比べれば「誰のための綾織」は軽い。
なにしろバカミスであるし、人の死を描いていても“それ”はミステリー
というテンプレートの中の道具立て、いわばゲームの一イベントにすぎない。
「誰のための綾織」は生も死も性もエンタメの枠でとらえているのだから。
そういう作品で、シリアスな漫画の台詞を引用してしまったことが
作家にも、読者にも悲しい結果を招いてしまった。


飛鳥部先生には、オリジナルの面白い作品でカムバックを願いたいところ
であるが…。


盗用の問題は、こんなところにあると思う。
たとえば、既存の作品Aを、後発のBがマネしたとする。
ケース1.刊行順にAを読んでからBを読む人は、
「なんだBってAのパクリじゃないか」
という感想を持って、怒ったりがっかりしたり本を投げたりするだろう。


ケース2.Aを読まずにBを先に読んだ人がいたらどうか。
その人は
「Bって面白い!」
と思うかもしれない。その人が、その後Aを読めばケース1と似た
感想を持つだろう。いや、それよりひどいかもしれない。
Aを最初に読んでいればこその感動が、Bによって奪われてしまう
かもしれないからだ。


それも悲劇だし、Bだけ読んで満足し、Aを知らずに終わるのも
それはそれで悲劇だと、私は思うのだ。


先行創作物へのリスペクトがあれば、おざなりな形での盗作は
心理的抵抗から出来ないはずだと思うのは、私が甘いだろうか。


これだけ出版物が洪水のようにあふれる昨今、物語は今や
パターンが出尽くし語り尽くされようとしているが、
それでもまだ、何か新しいオリジナルな煌めきがあるのではないか。
既存の物のパッチワーク的作品もあれば、あからさまな換骨奪胎作品
もある。そういったものを駆逐して、真に力ある物語だけが後世にのこって
くれることを、私は夢見る。